今年の盆休みは例年より少し長めだった。
ずっと気になっていた寝室と、その奥にあるクローゼットの片付けに取りかかる絶好の機会……
だったはずなのだが、結果から言えば「できたような、できなかったような」という実に曖昧な仕上がりで終わった。
けれど、モノと向き合いながら手と心を動かした時間の中で、ちょっとした気づきがあった。忘れないうちに備忘録として書き留めておこうと思う。
「捨てることが生き方」になった時代を思い返す。
10年以上前、近藤麻理恵(こんまり)さんが世界を席巻した。
「ときめきますか?」
あまりにもシンプルなその問いかけは、単なる片づけのコツを超えて、ひとつの人生論になった。
2015年には米『Time』誌の「世界で最も影響力のある100人」にも選出。
片づけという日常の家事が、自己啓発へと昇華した瞬間だった。
私も当時、例に漏れず本を買い込み、クローゼットの前で腕を組んだ。
服を一枚ずつ手に取り、
「これはときめくか? ときめかないか?」
と大真面目に自問自答したものだ。
思い返せばあの頃の日本には、どこか「余計なものを減らして身軽になりたい」
という空気が漂っていた気がする。
モノを減らし、人間関係を整理し、シンプルな生き方を目指す。
その響きが、やけに美しく聞こえた時代だった。
服の整理は、思った以上に簡単だった。
何年も着ていないカーディガン
「いつか痩せたら」と願いを込めたスカート
「高かったから」という理由だけで吊るされていた服たち
本も食器も、拍子抜けするほどあっさり手放せた。
だが、本当の課題は最後に残る。
「家の中で、一番ときめかないもの」
最初から、本当はわかっていたのだ。
けれどその問いに直面するのが怖くて、ずっと後回しにしていた。
「これは、本当に必要ですか?」
「これは、あなたを幸せにしていますか?」
あの静かな部屋で出かかっていた答えに、私はそっと蓋をした。
時代は進み、令和は「人生そのもの」を損切りする時代になったのだろうか。
以前、新聞をめくっていたら、雑誌『プレジデント』の強烈な広告が目に飛び込んできた。
「9割やめる生き方」
「仕事、夫婦、住まい——やめる損切り判断シート」
思わず二度見した。なかなか容赦ないコピーである。
こんまりさんの時代は「不要なモノ」を捨てた。
対して令和の時代はさらに一歩踏み込み、
「自分に合わない生き方や人間関係そのものを捨てましょう」
というフェーズに入ったらしい。
合わない仕事をやめる
消耗する人付き合いをやめる
無理な我慢をやめる
利益を生まない関係を「損切り」する
実に合理的で、正しくて、いかにも現代的だ。
けれど、どこか少しだけ背筋が寒くなる。
人間関係や夫婦生活まで株式投資のように「含み損」で測り始めたら、
私たちの手元には最終的に何が残るのだろう。
「損切り」という言葉の容赦のなさよ。
仕事の損切り、住まいの損切り、そして——夫婦の損切り。
もし目の前にその判断シートを突きつけられたら、
私はどの欄を一番サラサラと書いてしまうのだろうか。
……そこはどうか、聞かないでいただきたい。
それでも今日も、リビングに鎮座している。
10年前のあの日。
すでに「ときめいて」は居なかった。
そして今年のお盆休み、寝室のクローゼットと格闘した今日も変わらず、
夫は我が家のリビングにどっしりと鎮座している。
休日になればソファの定位置に深く沈み込み、テレビを見ながらせんべいをかじり、
「お茶」とだけ呟く。
その姿はもはや「家族」というより、動かない「大型家具」の域に達している。
こんまり方式で言えば:「怖くて最後まで残してしまったもの」
損切りシート的に言えば:「判断保留(塩漬け)」
といったところだろうか。
けれど、今回のお盆休みでクローゼットの端っこを掃除しながら思ったのだ。
夫婦という不思議な関係は、きっと「ときめき」や「合理性」だけで割り切れるものではない。
情なのか。
惰性なのか。
長年同じ現場を生き抜いてきた戦友感なのか。
切り離せない腐れ縁なのか。
自分でも、未だにこれという答えは出ない。
寝室の片付けと同じで、すっきり完了とはいかず「
できたような、できなかったような」モヤモヤした状態のまま、
また日常が始まっていく。
ただひとつ確かなのは、人生には
「潔く捨てたほうがいいもの」と、
「どうしても捨てきれないもの」
が存在するということだ。
そして厄介なことに、その境界線はいつだって、驚くほど曖昧でわからない。
本当に、わからないままだ。
だからこそ今日も、あの大型家具と一緒に、この家で暮らしている。


